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特集
文楽とは何か?〈後編〉
激動の時代を経て
大正、昭和初期と、それなりに名手が生まれ、名舞台が展開されましたが、火災や戦災で苦しい時代が続きました。戦後、文楽座は再建されますが、組合運動に影響され、組合派と非組合派に分裂します。組合派(三和(みつわ)会)、非組合派(因(ちなみ)会)に分かれ、それぞれ興行を行いますが、経営的には両派とも苦しく、「ハムレット」や「椿姫」など新しいジャンルに挑戦するなど試行錯誤が続きます。
この間、一方では重要無形文化財指定や各個認定(人間国宝)など、文楽は国の誇る伝統芸能として後継者の育成や芸の伝承といった課題を課されることになります。こうして公的関与の道が開かれ、国、大阪府、大阪市、NHKの4者の後援を受けて昭和38(1963)年に財団法人文楽協会(現公益財団法人文楽協会)が設立され、両派の対立は解消されます。また文楽専用劇場として大阪市に国立文楽劇場が建設され、文楽は新時代に入り、今日に至っています。
三位一体
文楽、つまり人形浄瑠璃は「語り手(太夫)」「三味線弾き」「人形遣い」の三者によって演じられます。その中でも太夫が主導権をもっています。というのは、かつては一段の演奏を一人の太夫が行っていたからです。今は2〜3人で分担することもあります。この場合、始めの部分を「口(くち)」、次を「中(なか)(または次)」、最後を「切(きり)」と呼びます。
太夫が一人で語るときは、登場人物の語り分け、情景の変化までを的確に表現することが求められますから、音楽的な美しさと共に「語り」の内容が重視されます。浄瑠璃を「歌う」ではなく「語る」という意味はここにあります。
「三味線弾き」は太棹を用い、バチも大きく荘重な響きを出すことが要求されます。これは語りの内容が悲劇的なものが多いからです。単なる伴奏ではなく、太夫の語りを助け、作品の内容をより的確に表現することが求められます。同じ音階の一音も異なった音色を出すことが多く、「浄瑠璃を弾く」のではなく、「模様を語る」と言われます。
「人形遣い」は一体を3人で行います。人形のかしらと右手を担当する人を「主遣い(おもづか)」、左手を遣う人を「左遣い」、両足を遣う人を「足遣い」とそれぞれ言います。究めるには長い年月を要するといわれ、俗に「足10年、左10年」といわれ、主遣い(おもづか)になるにはさらなる修行が要求される、厳しい世界です。
人情を味わい、教養を高めるために
江戸時代、浄瑠璃は武士、町人問わず、人々の最大の娯楽でした。大名や豪商の庇護を受けるわけではなく、個々人が払う木戸銭によって成り立っていたということがそのことを物語っています。1812年にロシアの軍艦に身柄を拘束された海商高田屋嘉兵衛は、ロシア軍艦に移される際、「身の回りのものだけ」と厳命されるなか、彼は浄瑠璃本数冊を持ち込んだと言われています。つまり、それほどこの時代の人々の生活に浄瑠璃が染み込んでいたかということです。
近松門左衛門と竹本義太夫が開いた浄瑠璃の新しい世界は、すべての人間がもつ喜怒哀楽を劇的に表現したことで、今なお人々の共感を呼んでいます。つまり、浄瑠璃を鑑賞することで、人々はその世界に自らを投影するのです。
歌舞伎のように俳優によって、その場面の雰囲気が左右されるのではなく、太夫の語りと三味線弾きによって、生命のない人形が生きているかのような錯覚に陥り、終いには人形が操られているのではなく、人形が3人の人形遣いを操っているように見えると言います。
そのことをドナルド・キーン氏は次のように書いています。
不思議な釣り合いを保って操られる人形が、すっかり観客の目にさらされている人形遣いの姿にもかかわらず、あたかも生きる者のような印象を与え得るなどということは、ほとんど信じがたいと考える向きもあろう。だが、事実、そこでは常にそうした幻想が生み出されるのであって、一場の終わりに、人形がいらだたし気に足音高く舞台から立ち去るとき、観客はまるで三人の人形遣いが人形に曳きずられているように感じる。非写実的であるという点で、人形浄瑠璃はさらに歌舞伎をさえ上回る・・・・(『果てしなく美しい日本』講談社学術文庫)