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文楽とは何か?〈前編〉

日本文化サロン特集 文楽とは
日本文化サロン7月公演 豊竹呂太夫

文楽とは?

文楽(ぶんらく)とは、正式には「人形浄瑠璃文楽(にんぎょうじょうるりぶんらく)」といい、「能・狂言」「歌舞伎」と並び「三大古典芸能」と称される、三人遣いによる人形劇のことです。もっとも大正期までは「文楽」とは言わず「あやつり芝居」と言っていました。

文楽と呼ぶようになったのは、大正時代に入り人形浄瑠璃専門の劇場が大阪の「文楽座」だけになったことからです。

近松―義太夫で黄金時代

人形浄瑠璃の黄金期を築いたのは竹本義太夫と近松門左衛門でした。

近松は、元々歌舞伎の坂田藤十郎のために作品を書いていましたが、並行して浄瑠璃語り宇治嘉太夫(うじかだゆう)(宇治加賀掾)のためにも作品を書いていました。

近松が浄瑠璃に重点を移すようになったのは、嘉太夫一座の浄瑠璃語りである竹本義太夫が独立して、近松の『世継曾我(よつぎそが)』(曽我兄弟仇討ちの後日談)を語ったことがきっかけでした。

竹本義太夫は、摂津国の農民でした。井上播磨掾(いのうえはりまのじょう)の弟子清水理兵衛に入門し、やがて頭角を現しました。宇治座に加わり、後に独立したものの失敗し、西国を回ります。やがて大坂道頓堀に竹本座を設立し、『世継曾我』『出世景清』『曾根崎心中』などの近松作品を次々にとりあげ、その人気を不動のものとしました。

そして、その後継者たちの合作により『菅原伝授手習鑑』『義経千本桜』『仮名手本忠臣蔵』など名作が上演されるに至り、「歌舞伎は無きがごとし」と言われるほどの、浄瑠璃の黄金時代を築き上げます。なお、『出世景清』以降を「新浄瑠璃」、それ以前のものを「古浄瑠璃」と区別することがあります。

歌舞伎と人形浄瑠璃の深い関係

近松が歌舞伎の世界にいたことで、歌舞伎俳優の得意芸を浄瑠璃に取り入れたり、浄瑠璃のために書かれた近松の作品が歌舞伎の演目に組み入れられるなど、歌舞伎と浄瑠璃は相互に影響しあう関係になります。例えば、同じ場面を浄瑠璃の人形が、歌舞伎の俳優がそれぞれどう演じるかを観比べるのは、浄瑠璃・歌舞伎双方の楽しみ方の一つでもあります。

歌舞伎の場合、俳優の個性によって演じ方の違いが出るのに比べて、浄瑠璃は台本に忠実なので、作者にとっては理想的な媒体だともいえます。近松が歌舞伎の世界を離れたのは、提携していた俳優が引退したことが理由だとも言われています。それだけ歌舞伎においては俳優の存在が大きいのです。

波乱の浄瑠璃盛衰史

人形浄瑠璃は「浄瑠璃語り(太夫)」と「三味線弾き」と「人形遣い」が一つになって演じられます。もっとも最初からこの三者が一体だったわけではありません。我が国には、昔から筋のある物語を口で語る「語物(かたりもの)」の伝統がありました。その代表が平曲と呼ばれるものです。いわゆる琵琶法師の世界です。その平曲が時代とともに変化をし、「十二段草子」(浄瑠璃姫物語)の人気が高まったことから、その曲節(きょくせつ)(節回し)を「浄瑠璃節」と呼ぶようになりました。

初期の浄瑠璃は琵琶を伴奏とするか、扇拍子の素語りでしたが、やがて琵琶は三味線に変わり、それに伴い曲節も大きく変化しました。さらに夷舁(えびすかき)(えびすまわし)という人形回しとが結びついて「人形浄瑠璃」の原形ができあがりました。文禄・慶長のころです(1592〜1615)。

当然ですが、最初の頃は人形も一人遣いで簡単な動きしかできませんでした。浄瑠璃の語りも単調な曲節で、その内容も神仏霊験記などでした。

江戸時代という教養の時代は、こうした芸が進化をするに格好の環境でした。浄瑠璃のみならずあらゆる芸が進化を遂げました。江戸、大坂を中心に数多の浄瑠璃語りが芸を競い、多くの流派が生まれました。

そして、この競演に実質的な終止符を打ったのが、大坂道頓堀に竹本座を創設した竹本義太夫でした。関西で「浄瑠璃=義太夫節」となった所以です。

ところで、竹本義太夫の高弟に美声で知られていた竹本采女(うねめ)がいました。その采女が独立し「豊竹若太夫」と名乗り竹本座と同じ道頓堀に豊竹座を創ります。そして作者として紀海音(きのかいおん)を起用し、竹本座の近松に対抗させます。

両座が競い合うことによって浄瑠璃人気はますます高まりました。両座が競った時代(1703〜1764)が浄瑠璃の黄金時代でした。両座の位置関係から、竹本座を「西風(にしふう)」、豊竹座を「東風(ひがしふう)」と呼びました。西風は地味で堅実な語り、東風は華麗でつややかな語りを、それぞれの売りとしていました。

しかし、皮肉なことに人形の発達により、自由な動きが可能になるにつれて、浄瑠璃は視覚重視の作品、演出が多くなり、その動きを歌舞伎が取り入れることで歌舞伎が盛り返し、竹本座、豊竹座とも1768年までに道頓堀での興行から手を引き、60年余に及ぶ「竹豊時代」は終わります。

「文楽」の誕生

竹豊時代後、優秀な演技者が出て、新作も発表されましたが、旧作品の再演が中心となり、浄瑠璃も人形も、先人の技に磨きをかける、いわば「洗練」期に入り、全国に広まっていきました。そんな中、寛政年間(1789〜1801)に入ると、正井(後に植村)文楽軒が浄瑠璃小屋の経営に乗り出します。

1811年には二世文楽軒が大坂博労町稲荷の境内に操芝居を開き、さらに四代目の文楽翁のとき、松島に移転し「文楽座」と名づけます。1872年、明治5年のことです。1884(明治17)年には、彦六座が稲荷境内にでき、文楽座も平野町の御霊神社境内に移転し、かつての「竹豊時代」を彷彿とさせる「文楽・彦六時代」が到来します。

太夫、三味線弾き、人形遣い、それぞれに名手が登場し、明治期の黄金時代を迎えることになります。しかしながら、経営的には両座とも苦しく、1893(明治26)年には彦六座が解散、次いで文楽座も1909(明治42)年に、植村家の手を離れ松竹に移ります。

彦六座にいた人たちは、稲荷座、明楽座、堀江座を興し文楽座に対抗しますが、1914(大正3)年の近松座の閉座を機に、文楽座に併合されたため、人形浄瑠璃の常設劇場が文楽座だけとなり、人形浄瑠璃は「文楽」と呼ばれるようになるのです。

取材協力:豊竹呂太夫国立劇場

次回後編では、このあと訪れる激動の時代、そして現代に生き続ける文楽が私たちに教えてくれることについてお送りします。